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明達寺
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暁烏敏の世界
暁烏敏の世界
明治十年、明達寺に生まれた暁烏敏(あけがらす はや)の生涯は、比類のない、世界と呼ばれるに相応しいものでした。
日本近代仏教への敏の功績を語れば、およそ二つになるでしょう。一つは、師、清沢満之と共に、親鸞の言葉「歎異抄」を、仏教の原点として蘇らせたことです。八年に渡って、同人誌に連載された「歎異抄講話」の文章は、日常生活を生きる心の救済を叫ぶ、情熱的なものでした。また、ある事情から、身を以て証す事となった「悪人正機」の体験(「更生三部作」)は、自己凝視による求道者の深い自覚と成りました。それは現代の、歎異抄ブームの先駆けとも言われています。
もう一つの、紛れもない敏の功績は、明治、大正、昭和の生涯を通し、阿弥陀仏の慈悲による万人の救い——回向の仏道を伝えた事です。信者の家に宿しながら、日本中を巡る旅の法話は、年に数百回を数えました。それを支える活発な出版活動、更に自坊での「夏期講習会」の開催と相俟って、古い門徒制度を中心とした浄土真宗を、敏は大きく変革したのです。これは、最晩年に招聘され大谷派の宗務総長に就任した時の、同朋会運動にも繋がりました。
仏教の功績以外にも、敏は多くの分野で足跡を残しています。敏は青年期から、正岡子規の短歌会に出入りをし、伊藤左千夫、斎藤茂吉などと交流がありました。特に高浜虚子とは生涯にわたる親友でした。歌人としての絶え間ない活動は、生涯一万首を越え、一番知られているのが「十億の母」の歌です。敏のもう一つの顔は、書家であることです。経典の言葉や自作の和歌を中心とした、墨書は教化の手段でしたが、その字の個性的な味わいは(晩年には盲目となったにも係わらず)大変な人気があり、今も求める声が止みません。また寺の最重要行事、報恩講の時以外は、敏は北海道から沖縄まで招かれ、常に法話の旅に出ていました。例えば、宮沢賢治の父親は熱心な支援者であり、十歳の賢治は敏と話し,一緒に散歩していたそうです。一時期、インド仏跡巡拝でタゴールと出会ったり、欧州、朝鮮、アメリカにまで足を延ばすなど、敏は一流の旅行家でした。
そんな旅の中で、考えられていたのは、大日本文教院(仏教、文化育成に建設を願っていた)の為の、書物や文化財でした。敏は収集家でもあり、数万点の収集物は(戦争で建設できず)、後に金沢大学へ「暁烏文庫」として寄贈されました。この分野では、敏に共鳴した民芸運動の柳宗悦、浜田庄司、棟方志功との深い交流が続きました。元より、「精神界」の編集主幹であった敏は、出版に精通しており、自坊を中心に前例のない活動をした出版者です。月刊誌「願慧」は二万部に達し、時代を先取りした、紀行文、文庫、新書、(今のムックのようなもの)まで発行されました。活動そのものが、弟子や書生たちの教育となっていたのです。
色々な姿を別としても、敏の真骨頂は、幅広く時代を見通す眼と、問題を抉り出す発想の豊かさに、他なりません。旅先のエルサレムから、敏の出した書簡に応えて、内村鑑三が感慨深く、敏や仏教とキリスト教について記した文が残されています。晩年には、雑誌の企画で亀井勝一郎のインタビューなども受けました。その頃、病床にあった高見順が、敏の書を愛読していた事も知られています。そこから生まれる文章は、後に、仏教の法話である「聖典編」に対して、それに劣らない質と量のある「思想編」と分類され、残されているのです。敏は独立不羈、自在の思想家であったと言えるでしょう。
一方で注目されるべきは、この様な才能を生む基として、敏は大変な読書家であり、学者であった事です。中心の仏典研究は、「大無量寿経」を始めとする主要な経典について、総て講話が残されています。原典の言葉を説明した後に、自由で生き生きとした譬えを交え、真髄が語られています。その外に、西洋の思想書、文学書(例えば「聖書」、プラトン、ゲーテ)から日本古典(「古事記」や十七条憲法)に至るまで、膨大な書を読破、研究していました。特に聖徳太子については、講読会を開く程でした。太子を、政治と仏教、日本と世界、主体者と批判者という葛藤を生き抜いた、大乗の仏教者と理解、敏は共感したのです。盲目となった後は、「宮本武蔵」(吉川英治と交流があった)を書生に読ませたりもしました。
最後に、よく知られている事実は、敏は青年期から、長く日記を記していた事です。また師や友人と、何時も心のこもった書簡を、頻繁にやり取りしていました。驚くべきは何よりも、万を越える数の法話を全て、必ず速記で記録させていた事です。その徹底振りは、敏の言葉にあてた速記の造語が、一冊の辞書に成る程でした。戦後に、テープレコーダーが出来た時には、いち早く利用をして、録音された法話を、ハワイ移民の為に毎月送っていました。
こうした長い、回向と教化、文化の生涯の結果、残された「暁烏敏全集」は、A四版六百ぺージ全二十八巻(反訳できない速記が残る)に及びました。推薦の辞で、金子大栄は、「清沢先生の言葉から、敏師は無障無碍の事実を明らかにされた」と述べ、丹羽文雄は、「親鸞の物語は、いずれ暁烏敏を書かないと終わらない」と記しました。云わば敏は、伝道者であると同時に、時代の記録者であり、それはそのまま、近代日本の偉大な精神の光芒であったと、今は理解する他ありません。古い弟子の一人は、敏は私たち全ての命だったが、一方で近くて遠い存在であり、ことわざ通り、まさに群盲象を撫でるようであった、と言いました。
没後には、「巨人」とも呼ばれた敏の全貌は、未だに捉えられたとは、云えません。二度に渡る全集出版や、数多くの敏についての書物、昨年初めて創られた、映像による紹介DVDなど、資料は少なくないに拘わらず、その世界の展望は尽きないのです。 (暁烏照夫)
〇 当寺で現在入手可能な書物など。
■ 暁烏敏全集 全二十七巻別巻一(涼風学舎)
■ 暁烏敏 単行本五冊(潮文社)
■ 暁烏敏 紹介DVD「光る世を抱き包む」(白山市)
■ 暁烏敏 デジタル紙芝居「暁烏敏のことば」DVD
■ 暁烏敏 小冊子(明達寺)
○ ご希望などあれば、お電話でご連絡下さい。